con amore

書を語る。



置きたい書を考えた。

誰もいない部屋に置いておく三冊の書。
誰かが入ってくる静かな部屋にぽつんと置いておく書。





『檸檬』『桜の樹の下には』ほか   

梶井基次郎 著



「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」

たまたま朗読されたその文章は、まるで初めて鏡を見て自分の顔のいろカタチを知った時のような新鮮な残酷さと、まるで見慣れた登校前の朝飯のような浸透力を持って私の中に落ちてきた。

それが、私と梶井基次郎との出会いである。

出会ったばかりのその塊は、私を自意識なく酔わせた。
一晩寝て起きてもそのほろ酔いを手放せなかった私は、翌日、千鳥足のそのままで本屋へと向かった。
こっそり台所から飴を盗むような背徳感を帽子に檸檬の描かれた一冊を手に取り、帰宅して開いては、また陶酔した。
死体のような床だけが私を地上に繋いでいると思ったのを、未だ覚えている。
酩酊感が抜けないままに親戚と夕ご飯の卓を囲み、その後に目にした三度目の桜でようやく、宿酔している自分を認めた。

私は、梶井基次郎が、中でも特に『桜の樹の下には』という作品がたまらなく好きである。
その桜の元に酔いしれているのかもしれない。

梶井基次郎の感受性には、内ポケットに入れて枯れ葉に微笑みたくなる心地よさと、淡い貝殻色の砂時計のような美しさがあるように感じる。
その感受性から落とされた言葉は、澄明な命の清らかさと、己を強く意識し世界から瞳を逸らすことのできない心の陰鬱さが、あまりに清冽に美しい。
どこか純粋で微かに厭世的なその鋭い目で冷静に写しとられた、豊かで繊細な仄暗さ。
梶井基次郎という感性を通して見える世界には、焦燥や憂鬱や不安といった不吉な塊を心中に残したままであっても、その、ままならなさに美しささえ感じた。

檸檬の残り香。
桜の虚空、翡翠の残像。
猫の空想。
器楽の幻覚。
月の誘い、昇天と滅び。

すべての憂鬱が日常のように私に溶けた。
こんな風に世界を見た若者がいた。
まるで同じように似たように違うように。
梶井基次郎というレンズは、常に私の心の窓辺に置かれている。





『智恵子抄』   

高村光太郎 著



泉のような、純真な、檸檬をかじる、世界と私を置いていってしまった、貴女。

最愛の妻、智恵子への一生の愛のうち、詩に詠まれたものがここに収められている。
それでもここのすべては愛の水面でしかないのだなと感じるほどの愛の詩が、一冊分。

小学校にあった全ての伝記の中で、一番よく覚えているものが高村光太郎の伝記だ。
高村光太郎という芸術家の芸術への苦悩とひたむきさもだけれど、何よりも、妻への尽きない愛が印象的だった。
まだ十歳そこらの子供だった私だけれど、これを最愛というのだと確信したし、未だに特別に当たり前に信じている。

その伝記に載っていた『あどけない話』という詩と、その背景の絵が忘れられなかった。

「智恵子は東京に空が無いといふ、」

そう始まる詩の背景で、山と川を前に手を広げて鳥のように風を感じている智恵子と、その後ろ姿を見守る帽子をかぶった光太郎の背中。その手にあるコート。

実際はモノクロの挿し絵だったかもしれないけれど、私の記憶には、明るい空の香りと優しいそよ風と、柔らかいあたたら山の色と智恵子のうたが鮮明に残っていた。

「阿多多羅山の山の上に
 毎日出てゐる青い空が
 智恵子のほんとの空だといふ。」


光太郎のほんとの空は、智恵子のいる空だ。
十歳のころから私はそう信じている。

「あどけない空の話である。」





『かもめのジョナサン』   

リチャード・バック 著



重要なのは食べることではなく、いかには速く飛ぶかということ。
その信念の元、飛ぶことの歓びと自由、そして愛することの真の意味を知るために、どこまでも空の果てと己の限界に挑戦する一羽のかもめ、ジョナサン。

ジョナサンは果たして何者であろう。
特別な御子?救世主?反逆者?
どれでもあり、どれでもない気がする。
もし私がフレッチャーであったのなら彼は救世主のような師に、群れの一員であったのなら愚かな反逆者に、観衆であったのなら特別な御子だか悪魔にみえたことだろう。
全てに通ずるのはただひとつ、彼はジョナサンであること。

人の目にどう在るように映ろうと、自分は自分でしかなく、どこまでも自分である限りは、いつか誰かに自分の在りたい姿、真の姿というものが映る。
これもまた、己を信ずることになるだろうか。

ジョナサンの生き方と行動をみていくうちに、私は、ある人を思い出した。

小学三年生の時、不思議な人と出会った。
その人は絵画や本の中から私に微笑む。
世界の三分の一くらいの人に敬われ、その愛の形を信じられている人だった。名をイエスといい、救世主という代名詞を持っていた。

愛について考え、思考と呼べそうな行動をし、他人への在り方を意識するのは、その人との出会いもきっかけの一つだと思う。

世が議論するその人の存在や実在の確証、信仰の有無などは私にとってはそう大きなことではなく、その愛の形は多くの人に届くものであるということ、そうであると信じられているということこそが大きなことだった。

「汝、敵を愛せよ。」

この教えを見た小学三年生の私は、こう訳した。

「人の短所より長所を見つけよう」

愛するとはどこからか、信ずるとはどこまでか。
考えることを止めずに私は飛び続ける。
愚かと言われようとも。
私は私であると信じて。
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